V2号ロケットの組み立て
今回のプラモデル組み立てはナチスドイツが開発した弾道弾ロケットV2です。
勿論、戦争や武器が好きな訳ではなく、当然、最も憎むべきものだと思っているが、残念ながら宇宙開発ロケットの歴史を語る時、V2ロケットに戻らざるを得ない。
それで組み立てて見たくなった。
この後、1957年10月4日にソ連が世界で初めて人工衛星スプートニクを打ち上げたR-7ロケット、
4ヶ月遅れでアメリカが打ち上げたエクスプローラーのジュピターCロケット(これはV2の外装を変えただけの感じのレッドストーンロケットが1段目に使われている)、
V2とは全く関係ない完全なる純国産技術であり、世界で4番目(3番目はフランス)になる人工衛星「おおすみ」を打ち上げたラムダロケットを作って見たいと思う。
ロケットに興味を持ったのは、東大教授糸川英夫氏により1955年4月12日、国分寺市にあった銃器発射場で水平方向に行われ、秒速100mというペンシルロケットの報道を見てからである。
長さ230mm、直系18mmのロケットが秒速100mで飛んだ事に興奮した。
当時、秒速100mというのはとてつも無く早く感じたが、時速にすると360Kmで今見ると大したことはない。
そんな影響を受けて、アルミ製の鉛筆サックに削り出したマッチの頭をぎっしり詰めて、口を小さく絞り、胴体を下からロウソクで熱して発火させ、その噴出ガスで飛ばした。
危険が無いようにと1人でわざわざ雨の日に近くの荒川放水路のグランドに行き飛ばした(実験した?)。
太陽熱利用を考えたり、ロケットを構想したりする生活に明け暮れていた為、某国立大学附属中学の受験に失敗した。
しかし、今でも何処かに図面(絵を定規を使って書いた程度のもの)が有るのだが、一本のペンシル「サック」型ロケットを完成させ、大型化するにはそれらを束ねる事を考えた図面である。
その後、この方法は「多列式」と言ってソ連やアメリカのロケットで使われた。
特にアメリカの第1号の人工衛星エクスプローラー打ち上げロケットの2段目、3段目は、書いた図と全く同じ多列式だったので、内心、結構かなり悦に浸っていたのを鮮明に覚えている。
また、霧吹きの原理を使った独自のロケットエンジンの構想も作った。
二酸化マンガンと過酸化水素を混ぜて、急速に発生した酸素ガスでアルコールを霧状に噴き出し、それに点火して飛ばそうというアイデアである(ロケットエンジンと言えるかどうかは不明)。
勿論、飛ばすだけの推力は得られそうも無いが、当時はかなり真剣に考えていた。
どうも小学生の頃から独自な物を作りたかったようだ。
それ以後、糸川英夫氏の弟子になりロケットの技術者になる事を夢みたが、まともな成績と乖離した状態が続き、生産技術研究所の入り口の軌道にも届かず、ロケット技術者の夢は消えた。
V2ロケットはその出生は純粋に殺戮兵器である。
V2が初めて無差別ロンドン攻撃したのは私が生まれた年、1944年9月8日である。
V2ロケットは人殺し兵器であるのだが、その実用化(殺戮の準備が整った)は技術的にのみ見ると、誠に不謹慎であるが、この年こそが宇宙開発用ロケット元年とも言え、私の年と同じ77年歴史という事になる。
何故なら、ソ連もアメリカも人工衛星を打ち上げたロケットの原点は、システムの設計の方向性はかなり違ったが、何れも敗戦国ドイツから持ち去ったV2ロケットだからである。